昭和51年05月13日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
昨日は福岡支部のご大祭でしたが、一番私はおかげを頂いたことは、秋永先生の信心が素晴らしい。もう本当に素晴らしい一つの素養を持っておるということに気付いた事ですね。これはとても私共が叶う琴じゃないと思うた事。そして秋永先生だけではない、誰彼の信心というか、まぁ信心じゃなくても人物というてもよい、を知るに至っては、もういよいよ皆んなが素晴らしいなぁ、ということが分かったということです。
ですから本当にそのう、素晴らしいものを素晴らしいものとして、頂いて行くというところに、まぁ精進がある訳ですけれども、ただ私がもう本当に、まぁ誰よりもまぁ結局つまらん私だなぁ。誰と例えば高柴さんがおられる。高柴さんと私を比較する時に、本当にもうとても高柴さんには及ばない、というものを自分に発見するし。久富繁雄さんに、色々その奉仕を受けておる私ですけれども、もうとてもとても一緒におってみて、とても私共がこんな、良いものを持たないと言う様なものに気付いたり。
久富正義さんなんかに至っては又いよいよもって、人物の上のいうても、まぁどういう面からいうても私がもう劣っておる。昨日秋永先生の所へ行って、その秋永先生を中心にしてあのご大祭が仕えられるのを始めから最後まで、その自分の詰まらないと言う事。又みんなが素晴らしいと言う事が、分かったという1日でした。こりゃ私の昨日の本当におかげであると思うて、まぁ今日の御理解を頂かせて頂いたんですけれども。
「神になりても、神より上になると思うな」というところを頂いて、ははぁ昨日私が頂いたり感じたりしたりする、この頂きこそが「神になりても、神より上になるとは思うな」と仰るところに、ぴったりくるような気が致しました。どんなにいうならば、皆んなから神様のように言われるような身分にならせて頂いても、お徳を受けていっても、その例えばなら私がね、誰の彼のいうならば人物そのものというものを知れば知る程、私よりも素晴らしいものを持っておられると言う事に気付くということ。
まぁ極端な例を申しますと、なら椛目の定男さんなんか。まぁいうならば世の片隅で一生懸命生きて行くという事に精進しておる人です。私のためにゃどげんなりますかな。従弟の子ですから従弟半になりますか。給料なんかでも人が十万円とるところは、恐らく五万円。そしていつもこう人からは軽うみられながら、まぁ生きておる人です。けれどもよくよく定男さんを観察するというか、見ておるというかお付き合いをしておると、とても私どんが叶わん様なものをもっておるということです。
だからそこば思う時にです、とても人をかるう見ると言った様な事は出来はしません。いわゆる神より上になるとは思うなと言う様な心は起きてこないです。定男さんにも劣っておる私なんだもん。いや誰彼と比較したらとてもとても問題にならない程しの素晴らしいものを持っておる。だからその人達が本気で本心に立ち返るという事に精進をさせて頂いたら、それこそ素晴らしい事になるだろう。
もしそういう人達がお道の教師でも志させてもろうて精進したならば、合楽教会ぐらいな琴ではないような教会が沢山出来るだろうという内容を、皆んなが持っておられると言う事であります。私は昨日そういうものを感じましたです。第一なら私の方の家内と、なら秋永先生のところの家内とを見比べて見る時にです、とてもとても家の家内があちらの奥さんの、足元にでもよらないものを、あちらの奥さんは素晴らしいものを持っておる。夫婦がそうなんですから。
とてもこれが本当に磨きを掛けて行くというか、本心に立ち返るということの生き方に目覚めたならば、素晴らしかろうと私は思いました。いうならば私ぐらいな者でも、このようなおかげを頂いておるのであるから、皆んながその気になられたら素晴らしかろうということなんです。これは私はね、あのお世辞じゃないです。本当にそう感ずるです。問題はね、結局自分が本心に立ちかえろうと精進するかしないか。又はそれに気付くか気付いていないかということなんです。
「神心となりて人に丁寧に話をしていくのが、真の道を踏んでいくのぞ」と。おかげを受けたら、いわゆる金光大神が何時までも、尽きぬおかげを話にしろとしておくと仰せられる。その尽きぬおかげの頂けれる話を、私共がです真面目に忠実に頂いて、そして日々その体験を生んで行く。その体験をです人に伝えて行く。しかも神心となりて。自分ぐらいな者でも助かる。自分ぐらいな者でも助かってるんだから。
この人がもし金光大神の道に入り、金光大神の話を聞いたら、どんな素晴らしいおかげの受けられる事になるだろうかと思うたら、話さなければおられない心が神心だと私は思う。私位なものでも、いよいよ本心に立ち返ってということは、持って生まれたいわゆる神としての心です。いうならば分け御霊としての私です。人間皆んなが神様の内容を備えておるんだと言う事です。だからそういう心を神心というのです。
そういうもとつ心にです、私共が返らせてもらう。私の父の八十八歳の時の皆さんに白扇に、まぁ歌ともなんともつかんものを自分で、毎日親が沢山書きましてね、皆さんにお配りしました。その中に「有り難し、有り難し、唯有り難し」とこう、有り難しを三ついってるですね。「有り難し、有り難し、唯有り難し」。我が身一人は元の身にしてと、最後を締めくくっているんです。
だから、その意味が私どうしても分からなかったんです。だからこれはお爺ちゃんどういう意味のち私が言うた。「大体このもとつ身にしてということはどういうことか」ちいうたら。「そりゃもうもとつ身にしてたい」て自分も知らんごたる風です。分からんごたる風です。けれども私はこの頃からその事を本当に素晴らしい事だと、今日私はお互いが、本心に立ち返って元つみにと言う言葉を今、お話の中に使っておりますがです、私共が本当に生神としての生を受けた。天地の分け御霊としてこの世に生を受けた。
ところが人間我情の為に、我欲の為に何時の間にか神どころか、それこそ人面獣心とでもいおうか。自分の心の中に作っておる、それこそ顔形とは似てもにつかないような心が、何時のまにか心の中に、荒れすさぶようなものに、なり果てておるということなんです。欲の為には人の命でもとろうかという。自分の思うごとすること人の茶碗でも叩き落としてからでも。ただ我情我欲の為に、いうならばその元つみであるところの、神としての本質を曇らせ濁らせ。
そしてそれによって、我情我欲で覆い被せてしまっておる私共が実態。それそこに銘々の人間の難儀があるのです。そこで我神の子の自覚が出来たところからです、本心に立ち返ろうとする精進なんです。そして信心はもうこれに極まったと言う事なんです。信心とはわが心が神に向こうのを、信心というのじゃという。元つみに向かって精進するということなんです。しかもそれが限りなく続けられて行くと言う事。
その手立てとしてです、お道の縁を信心の縁を頂いて、金光大神が何時までも尽きぬおかげを話にして残しておって下さる。ご自分自身が、凡夫川手文治郎からです、段々生神へ向かっての精進をなさり、そこから御自身の信心体験。又は天地金乃神様から、直接御教えを頂かれてそれが徳になり、その徳というものは何時までも、何時までもおかげの頂けれる、いわゆるあの世、この世を通しておかげの頂けれる、尽きぬおかげの頂けれるという事をご自身が体験なさって。そしてそれを私共に伝えて下さる。話にして残しておくのぞと仰る。
だからその話を私共が、まともからです忠実にです、それを行じて行くという生き方を身に付けて、そして限りなく精進させて頂くということ。それは元つみに向かって精進していくという事。言いかえると神へ向かって精進していくと言う事。そして信心はこれに極まったと確信して、あらゆる問題あらゆる難儀。そういう難儀問題を通してです、いよいよそれを生神への、いうなら元つみへに進んで行く事のための、手懸りともし足がかりともして、進んで行くんだと思い込む。
だからその思い込みがです、私は皆さんに少し優れておるのじゃないかとこう思うんです。はぁ私は昨日はね、本当に秋永先生の所へ行ってそれを感じました。もう本当に秋永先生が本気で、その事に精進しきるようになったら、どんな素晴らしいいうならば、おかげを頂くだろうかとこう本当に思いました。とてもとても私共が叶う様なもんじゃなかって。だからお互いがそういうものをです、なら私が皆さんをなら見て感じてもです、昨日のあり方で私が皆さんを見るならば、今2、3人の方を申しましたように。
とてもとても私共が足元にもよらないほどしの、素晴らしいものを皆さんがお持ちになっておられると言う事。気付く気付かずはもう知らんけれども。問題はお互いがです、一つ本心に立ち返ろうとする精進を本気でなさる事。いやそれが信心だということなんです。昨日私はあちらへ参りまして、皆さんご承知のように私の話は、さぁ今日のご大祭にいっちょこげな話ばしようと思うて、思うた事は何時もありません。
だから神様に、皆さんにお説教聞いてもらわなければならんから、御神前にあのお願いをさせて頂いて、御心眼に頂いたのは。お榊の芽がちゃっと、あの1、2部出ておるところを御心眼に頂いたんです。それはもう本当に、あちらの場合はちょうど時期が、何時もお榊が芽を出してその芽がしおれる、ありゃもう直ぐしおれますからね、グシャとなりますから。そういう時期です。丁度時期が何時も、それでその芽をちゃんとするためには、もう大変な色々な、あの手この手を使うてその水揚げを工夫する訳です。
私があげた親玉串なんかというものは、あの若若しい芽がこうぴぃんと、してましたがね、この手元んところを紙で巻いてある下の方には、なんか水を含ました綿かなんかが、こうしてあると言う事でございましたが。ただ切ってきて直ぐ水に付けときさいすればよいと言う事じゃなし。色々な工夫をしてから、あの若芽がちゃんとグシャとならんようにしてある。その芽がこの位ちょこっとばっかり伸びておるところを頂いたんです。そしてあのう頂きましたのが。
御教えの「真に有り難しと思う心が、直ぐにみかげの初めなり」という御教えでした。もう私はそれとこれとを頂き合わせてから、もう本当に私共の頂いておることの、浅いのに何時も何時の場合でも驚きます。皆さん日々こうやって御理解を頂かせて頂くたんべんにです、教祖様の御教えのいわば、一言の言葉の深さ広さにもう何時も、何時もいつも驚いてしまうです。「真に有り難しと思う心、直ぐにみかげの初めなり」と。今まで信心をしたこともなかった者がです、一度信心の道に入らせてもろうて話を聞く。
それこそ今まで聞いた事もないような大変なお話を頂く。なるほど自分の生き方、生き調子が間違っておった事に気が付く。天地の大恩なんて天地の大徳なんて、とても思うた事もなかった。その大徳に報い奉る大恩に報い奉る。天地の道理が分からせてもろうて、本当に道理に合わない生き方ばっかりしておった自分に気付かせて頂いてです、それこそ信心の眼が開けてまいります時にです、どこから湧いてくるか分からん信心の喜びが湧いてまいります。それが信心の私は喜びの芽が出た訳なんです。
ところがそのいわゆるお榊の芽、榊という字は木偏に神という字が書いてありますよね。まぁ今日の御理解でいうと、いうなら神心と書いてあるわけです。木は心。神と書いてある。その神心の芽が出る訳なんです。信心させて頂く事によって。ただあれも頼まんならん。これお願いせんならんから参りよった。参らせてもらいよったら御祈念する事を覚えた、お話を頂く事が楽しゅうなってきた。そして今までかつて聞いた事もないような天地の大恩、天地の道理を聞かせてもろうて、自分のいうならば愚かさ加減。
自分の気付かなかった加減が分からせてもろうて、いよいよ天地の大恩に、いわば神恩報謝の生活をしなければいけないという事が分かり。そして天地の道理を踏んまえての日常生活でなからなければならないという事が分かり、そこから生まれてくる体験。その体験がいわゆるおかげである。信心の芽が出る。ところがその芽というものはです、今も申しますように、植物でもその芽が枯れやすかったり、ぐしゃっとなりやすかったりするように、もう実に微妙なものなんです。
はぁほんに信心ちゃ有り難かのうと言いよる人が、何時の間にかコロッと信心をなくしたり、失ったりする事実が沢山ある事です。だから信心とはね、本心の信心とはですね、その喜びの芽信心の芽をです、いよいよいかに工夫して育てるかという事が信心だという事なんです。今の若芽立ちのお榊を切ってきて、そりゃぐしゃとなるとが当り前といわずに、色々な工夫をさせてもろうて、それこそ銘々があげるあの、玉串一本一本が、いうならしゃんとした、瑞々しい榊を玉串にする事が出来たように。
それにはもう前の晩かその前の日からかですね、色々とそれを手篤う。手当てがしてある工夫がしてある。私共が信心によって頂くところの信心の喜びの芽をです、どうしてこの芽を育てていこうかというところに、精進をさせてもらうのです。だからその精進をする人が、いうならば信心のいよいよ有り難さ。いうならば信心が、お榊があの芽の時期を通り越して、そして一つのまぁお榊がね、ちょっといっときにとき水から放しておってもグシャとならんような。
いうなら信心がいよいよ血になり、肉になりするところまでが、信心辛抱です。もう信心は外されない。しかもいよいよあの世にも持っていけ、この世にも残しておける神徳を頂いて行くという、事の事実が自分の心の中に感じられるようになり、その信心がです、人間の幸せの条件というものが、一つ一つ足ろうて来るほどしの、おかげを頂きだしたら、とても、信心は血に肉になって来たら、外す訳にはいけない事になってまいりますのですけれども。
そこまでに至るまでに、信心の喜びの芽が出たのも束の間、それを摘み取ったり踏みにじったりするような人が、実は多いという事であります。私の信心がもし皆にちょっと優れておる所がどこかあるとするならばです、その芽を絶えずです生き生きとしたものに、何時ももうそれこそ寝ても覚めても、その事に心を砕いておると言う事だけが、違うのだという風に思うのです。だから曲りなりにも幼稚ながらもそれが育って行く。皆んなはとてもとても、私共が足元にもよらない素晴らしいものを持っておられる。
だからそういう素晴らしいものを信心によって、いよいよ生かして行くところの、おかげを頂いてまいりましたら、日々の体験がいよいよこよない尊い体験になり。その体験をです、それこそ神心となりて人に伝えて行くという。自分ぐらいな者でも、こういう体験が受けられるのであるから、あの人がもし信心が分かったら、どういう素晴らしい信心になるだろうかと。私は昨日秋永先生に感じた。私ぐらいな者でもこのくらいのおかげを頂いておるんであるから。
秋永先生がもし本気でです、本心に立ちかえるという事に極まったという信心の精進をするなら、あのお榊を大事にして水揚げを工夫した様な心掛けというものを、日常生活の上に作っていったならばです、とても合楽ぐらいなものではない程しのものが育つ事であろうと言う事なんです。自分ぐらいな者でもこの様なおかげ頂けるのだから、あの人がもし信心を頂いたら、どんな素晴らしいおかげが受けられるであろうかという、その心が神心なんです。
その神心を持って人へ仕えてそして段々おかげを。そういう生き方こそが真の道を踏んで行くのぞと仰る。真の道とはどんな道じゃろうか。真の道を踏んでいくとはどう言う事じゃろうかと。よく皆んなが申しますがです、今日の御理解を頂きますと、自分ぐらいな者でもこの様なおかげを頂いておるのであるから、あの人がおかげを頂いたらどんな素晴らしい事になるだろうかと思うて、その事の体験を人に伝えて行く。その伝えて行くその事が、そして真の信心をさせるのが、神へなるのだともここに仰っておられる。
又それが真の道を踏んで行くのぞとも仰っておられる。しかもそれを生まず絶えまず踏んで行こう。伝えていこう。そして神になる事の、いうならば日夜喜びをですね、信心生活だと心得ての信心。しかも神になりても神より上になるとは思うなと言う様なところでもです、もう誰にも劣っておる自分であるという発見。それこそ神より上になるだんじゃなか、人より上になるということすらも出来なくなって来る。そこに実意が生まれて来る。そこに謙虚な態度が自ずと備わってくる。
私は今日はこの61節を、ある意味において完璧に、まぁ説かせて頂いたような感じがいたします。どうぞ繰り返しひとつ思うてみて、皆さんが例えばねこの世に生を受けた時に、神としての値打を備えて生まれておりながら、何十年間経つうちに、それこそ垢や埃にまみれてしもうて、いうなら我情我欲にまみれてしもうて、顔は人間の顔をしとるけれども、実際は心の中には獣にでも劣るような心を持っておる自分自身発見して。人面獣心から人面神心と。
人間の姿はしてあるけれども心は神様のような。自分で自分の心が拝みたいような。人が接したならば後光が指しよるような私にならせて頂くということを、目指さなければならない。例えよしそういう風なおかげを頂いても、私のようなものが誰にも劣っておる、彼にも劣っておる、とてもあの人の真似は出来んと言った様なものをも、段々身に付けていきながら、信心を進めて行く訳であります。
どうぞ。